昭和二十一年五月十七日、名古屋港に帰還し、援護局の諸手続きを終了した各将兵は、名残りを惜しみながら戦友との挨拶もそこそこに それぞれの故郷へと散っていった。見るもの聞くもの無性に腹ただしさを感じながら・・・

 あれから早や三十四年の歳月が流れた。「復興参加」を合言葉に生き抜いてきた我々の仲間戦友の大半は当時二十歳台の若者であっただろうが、 今はそれぞれの職場で定年を迎え、孫と戯れ、還暦祝いをしているだろう。白く、あるいは薄くなった頭髪に手をやって往時を顧みているに違いない。

 つわものどもの夢の跡を辿ってみても断章はあってもとうてい完章にはならない。

 生き残っている当時の戦友の方々が完全に記憶している断章を継ぎ合わせない限り真の完章にはならないし、これは到底不可能のことであろうと思う。 戦後幾多の戦記ものや戦史が出版された。

 幸いわが夏兵団の記録も防衛庁防衛研修所戦史室著「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦4」をはじめとして古守豊甫著「ラバウル従軍軍医の手記 南雲詩」、 瀬戸内海新聞の昭和四十九年頃登載の「栄光の福山聯隊史」、同紙の稲木弥三郎の手記、「歩兵百四十一連隊史」、戸伏長之氏の「偕行」掲載記事、雑誌「丸」、その他 ラバウル航空隊関係著書雑誌等々数多く残されている事は嬉しい。

 日付、人数その他の事柄で各記録に多少の食い違いが見られるのは残念ではあるが、止むを得ないことであろう。上級幹部は戦略的な大局面を、 又下級将兵は局部的な戦局の「末端の苦労」の断章を持っている。しかしこれまた次第に計数的なこと、場所などについては薄れていく。誠に寂しい事だが事実である。

 一日一日老いて行く。復員後この世を去られた方も数多い事と思われる。昭和三十一年十一月七日には真野五郎氏が、四十三年十月四日には今村均氏が、 五十一年三月三日には片山憲四朗氏がそれぞれこの世を去って行かれた。哀惜にたえないことである。

 しかし各種の叢書の中で貴重な「戦後の回想」を残されておられる事は有難い。私のこの日付の無い日記帳は、はじめに断ったように私の「断章」であり 私の為の記録である。描き終わって冷汗三斗というところだが、還暦を間近に控えた今、一応ホッとした思いである。

 最後までお読みいただいた方に感謝申し上げるとともに、戦場で苦楽を共にされた方で、ここはおかしいとか、間違っているとかお気付きの点があったら ご遠慮なくご指摘願いたい。

※参考にさせて頂いた書籍など
1、防衛庁防衛研修所戦史室著 南太平洋陸軍作戦3~4。
1、古守豊甫著 南雲詩(ラバウル従軍軍医の手記)
1、深津 繁編 福田恒一発行 ラバウル回顧録
1、太田庄次編 南太平洋戦跡慰霊の旅の記録刊行委員会発行 ラバウルの今昔 、歩兵百四十一連隊史
1、丸編集部責任編集 特集丸第一号別冊 日本海軍艦艇写真集
1、その他数多くの戦友の回想

なお、地図及び写真は、防衛庁防衛研修所の許可を得て、同戦史室著「南太平洋陸軍作戦4」から転載させて頂いた。