月明の海上をマーカスへ
師団命令を受領した松田支隊長は、この命令に基づき直ちに主力方面から一個大隊をマーカス岬へ逆上陸させる決心をした。検討の結果起用部隊はブッシング所在の歩兵第百四十一聯隊第一大隊を逆上陸部隊に充てる事にした。十六日午後には聯隊長にその旨を命令、師団司令部に逆上陸決行の件を報告した。南東方面艦隊は方面軍に松田支隊が十六日夜同作戦を実行する旨報告が届いたので、友軍攻撃を避けるため、航空攻撃の制限を処置した。十六日午後、逆上陸の命令を受けた歩兵第百四十一聯隊第一大隊は早速呼集を実施して人員を集め出発を準備した。しかしそれは急なことで大隊の全力は集結できずに集まった人員だけで出発することにして午後十時頃舟艇への搭載を開始した。戸伏大隊の対する逆上陸の命令はまったくの突然であったため、事前の準備は何も無かった!ともかく出来上がった編成での出陣である。七隻の舟艇に搭載し終えた戸伏大隊は、イトニ河口を出て月明の海上をマーカス岬に向かった。しかし、この夜はマーカス岬とブッシングのほぼ中間、ペイホ岬付近までしか到達しなかった。地図にないリーフの錯綜する海上を以前航行した経験があるという船舶工兵小隊長小堺少尉を頼りにして航行した。途中すれ違うリーフの影も敵艦と見分けがつかず僅かに我航空攻撃とその応戦の模様が望見されるマーカスへの侵入は無防備にも等しい大発の艇隊にとっては極めて危険であると思われた。その上マーカス岬への侵入路はピレロ、アラウエ両島の間の狭い水路を経て、岬突端の桟橋に通じるものしかない旨を小堺少尉が告げたので、大隊長は敵艦船の群がる狭い海峡への突入は自殺行為と判断し更に西方の海岸に上陸。爾後陸路を経てマーカス岬に進出する決心を採った。十八日払暁オモイ付近に上陸(マーカスから直線距離で約6キロ)詳細な地図も無く砲声と方角を頼りにマーカスへ。この際オモイ付近で敵武装舟艇2隻を撃沈する。
米海兵隊公刊史によると、2隻に乗船した19人の斥候がイトニ河方面に偵察に行き、同日同時刻部隊を搭載した日本軍舟艇7隻にペイポ岬付近で奇襲され2隻とも破壊されたとある。
松田支隊長はこの上陸について、マーカスから離れているために再度上陸のやり直しを命じたとあるが、片山聯隊長の戦後の回想によれば再度舟艇を出したかどうかは定かではないとのことだ。戦陣の断章著者も再上陸はなかったと書いている。オモイ付近に上陸した戸伏大隊はマングローブ湿地の中を前進しては水の深みにはまり引き返し、また別の方向に前進しては引き返しを繰り返しながら前進していった。マーカス岬に対する反撃はニューブリテン島での初戦であり、ダンピール海峡防衛戦の一段階を画するもので各方面から注目されていたので焦りは隠せなかったとのことだ。「戸伏大隊が7隻の大発動艇に分乗してブッシングを出発したのは、まだ夜も明けきらない早朝であった。それぞれの大発は、武装をした将兵で満載である。 先頭舟艇の小堺小隊長は、私と同期で船舶工兵の少尉。戸伏大隊長と蔵岡副官と私は、兵と一緒にこの舟艇に同乗していた。 小堺船舶隊長はこの辺を数回往復しているので、 大隊長も海域のことは彼にすべて任せていた。 」と、塚本氏は語ってくれた。そして上陸の際の戦闘の様子をお教え頂いた。
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