DIARY OF WAR


 Diary No.27「転進」

 「転進」というと、ポートモレスビーを目指した南海支隊が、食糧、弾薬の欠乏で
米軍の基地を目前にして引き返したことから「退却」という意味に捉えられ、以降 なんとなくマイナスイメージを与えてしまったようである。
部隊の建て直しとか攻撃方針の変更のために、その場から引き返し移動する場合も出てくる。
その場合でも止むを得ない「転進」をせざるをえないことになるのである。

 われわれが「マーカス岬の戦闘」で「最後までその地を死守すべし」という命令を受けて、
その意気込みで頑張っているところに突然、「カ号作戦の発動」に基づきラバウル防衛のため集結せよの指示が出され、心ならずもラバウルに向けて転進せざるを得ない状況になってしまった。

 中央にいる幕僚は簡単に命令を出すが、船舶も無くなっている現状下では、
ラバウルに集結するには徒歩で行くしかない。
食糧とて皆無の部隊に約600キロの道なき道を歩いて来いとは・・・
命令は遵守しなければならない。ツルブ地区配備の多くの部隊をはじめ、
われわれのような「死守」を捨てての部隊まで、時を同じくしてラバウルへ向けて転進を開始した。

 連隊本部では、特に軍旗の保持が大変である。
連隊旗手の藤本少尉は、軍旗を分解して頭部の飾りを旗に巻き込み、
胴にしっかりと巻き付けて歩いたという。
渡河とか河口横断では何度か水につけて重くなったことだろう。

当時の軍旗は、天皇陛下そのもである。転進中の苦労の程が察しられた。

転進中の苦衷は既報のとおりであるが、ニューブリテン島西部で戦闘した各部隊は、
多くの戦死者を後にして、約2か月余をかけラバウル地区に集結したのである。

転進中の多くの犠牲者は、今でもかの地に眠っている。

 軍旗を捧持しての大部隊は、「カ号作戦発動に基づく転進」を果たし、
以後ラバウルの防衛に全力を投入することになったのである。
転進終了後、旗手は私と同期の兼沢少尉(当時)に代わった。
戦友会で何回か藤本元中尉(私の1期先輩)と合う機会があったが、
いつも穏やかなお顔で当時の苦労話をしてくれた。
健康を害されたそうだが、今も広島にお住まいである。

 

Diary No.028「殊勲甲」
 

 

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