Diary No.22「同期生」
昭和18年1月16日。福山の連隊から久留米第一陸軍予備士官学校まで ずっと一緒だった同期生8名が、ラクネに駐留していた本隊に追及着任した。 ここでいう本隊とは・・・第65旅団歩兵第141連隊のことである。 我々は、当連隊がフィリッピンのバターン攻略戦で失った将校の補充要員であった。 南方作戦でのわが軍の基地は、天然の要塞「ラバウル」地区。 米軍の基地はニューギニアのポートモレスビーであった。 わが軍は、第8方面軍司令官「今村 均大将」のもと 連日の猛爆撃に耐えて最後まで守り通したことは、改めて言及するまでもない。 さて上記の同期生8名のその後は・・・。 M君は、未だ見習士官でまだラクネに駐留している時に、なにかの食中毒で猛烈な下痢に襲われ、 遂に生命を落としてしまった。われわれ同期生数名で野戦病院に見舞いに行ったときは慰めの言葉も出ない程 衰弱しきっていた。さぞ悔しかったと思う。 その後私とY少尉はマーカス岬の戦場に、I、F、Kg、Kk、Kzの各少尉はツルブの戦場でそれぞれの立場で 奮闘したのである。 私とF君は当時大隊長の副官、その他は小隊長を仰せつかった。 Y君は、マーカス岬の戦場で、兵2名を連れて斥候に出たが、 敵に遭遇したのか遂に帰ってこなかった。その後「生死不明」の扱いになってしまった。 F君はツルブの戦場で大隊副官業務中被弾した。(戦後、死ぬまで破片が腹の中に残っていた。) Kg君は、同戦場で敵陣に切り込み名誉の戦死を遂げた。 結局、8名の同期生中、M君とKg君とY君を戦場で失ってしまった。 Kn君は、転進後第3代連隊旗手に選ばれ、終戦後軍旗の焼却に立ち会った。 現在生存している同期生8人のうち彼とKk君と私の3人だけになってしまった。 最後まで生き残るのは誰だろうか?
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