ラバウル攻略 R作戦


 ラバウルは作戦初期の段階で攻略入手する必要があるとされた。 その理由は次の通りである。
「ポートモレスビー及びラバウルがオーストラリア防衛上の前進拠点として極めて重要な位置を占めていること。」

 ポートモレスビーは珊瑚海からオーストラリア北東部にかけての一帯の制空権を握るのにかかすことの出来ない位置にあり、 ラバウルは日本の統治領である中部太平洋の東西カロリン諸島ににらみをきかせる位置にあった。
何故ならば、アメリカにとっては南太平洋を経由してフィリピンに至る航空路線上の中継基地という重要拠点であったからだ。
 アメリカは開戦前にフィリピンの航空兵力増強のためにB-17を輸送する中継地点として、 ハワイ〜ウェーク〜ポートモレスビー〜ポートダーウィンを経てフィリピンに至る長大な航路を利用していた。
そしてラバウルが、米豪共同作戦基地として、長距離爆撃機の能力を持つB-17の発信基地や、潜水艦基地として使われると 中部太平洋方面において、日本海軍の前進拠点基地である東カロリン諸島トラック島をはじめとするこの海域一帯の日本の海上交通線が重大な脅威に晒されることになる。これは断じて阻止しなければならない。
 現実としてアメリカは、ラバウルを中部太平洋における日本船舶攻撃基地として使用する計画を立て、オーストラリアの合意を取り付けていたのだが、基地設備の強化を実現しないうちに開戦となってしまったのである。

十七年一月十四日午後一時三十分

 九隻からなる南海支隊の輸送船団は海軍及び攻略部隊本隊に護衛されてグアム島アプラ港を出航。
隊形は第三警戒航行序列であった。

十七日七時三十分

 メレヨン島西方でトラック島から西航した第六水雷戦隊、第四部隊を合同し第一警戒航行序列に転位。
この際、このような挿話がある。 「六時二十五分頃、軍艦津輕の右方水平線三十q遠方に帆柱を認めた。
合同を予定している夕張のものと思ったが 七時二十分それは軍艦ではなく帆船であることがわかった。 この帆船はフィリピンからオーストラリアへ遁走中であるマッカーサーの小型船である算大なりと確定し、 大いに緊張して追求したるところ、全速力で遁走するので益々疑い、増速して捕らえたる所、 日本の鰹船にて帆船は、「米艦に追われていると思い遁走しました」と言う。 総員万歳を連呼して「マグロ」を三、四疋贈呈してくれたり。」 津輕艦長稻垣大佐の戦闘詳報に記されている。
当時の雰囲気を伝えるものだ。

十八日

 海軍攻略部隊指揮官に南海支隊長から手旗による信号が発せられた。
「海軍の護衛に対し万福の感謝の意を表し安心且愉快なる航海を続行。目下赤道祭りを準備中なり」 いよいよ連合軍飛行範囲に入る。

十九日 六時三十分

軍艦津輕からチェリボン丸乗船聯隊長に信号。

一、政庁北側高地に新たに高角砲二門整備せり

第二分隊進入の漂泊地は「ラウエオポイント」沖付近とする。以下省略聯隊長返信

一、政庁北側高角砲は黎明までに占領するをもって北岬砲台を顧慮し第二分隊の泊地は予定の如くせられ度。

以下省略

二十日

 赤道を通過 「陸軍部隊としては神武天皇以来だ」と部隊は意気衝天の感あり。士気極めて高し。

午後五時三十分

 駆逐艦夕張をムッソウ島偵察の為に序列から分離。 攻略部隊支隊(第十八戦隊基幹)はカビエンに向けてトラックを出撃。

二十一日

 快晴で暑い。船団はいよいよラバウルに接近した。 南洋部隊(第四艦隊)は午後四時四十分各方面に打電。
「一月二十一日一一四〇頃より午後に亘り敵飛行艇は味方第六戦隊に接触せり」 この接触した飛行艇からは「敵巡洋艦4隻カビエンの南西六十五浬をラバウルに向かう」と発信。
ラバウルのニューギニア地区司令部は攻撃が近いと判断、上陸予想地点に対する臨時編成部隊の派遣 全部隊の即時機動準備等について検討を始めた。

二十二日

 ニューブリテン島、ニューアイルランド島が見え始める。 R攻略部隊指揮官志摩少将の日誌にこのように記されている。
「朝来驟雨頻繁にして、密雲四周を覆い陸岸に近接して徐航するも尚敵の発見を困難ならしめたり。」 正午少し前、右舷にラバウルの島影を認め、船団は満を持してニューアイルランド島の島影を進んだ。

午後四時二十分

 旗艦沖島の艦上から信号が上がる。 「津輕及第二分隊は一六三〇令なくして陣列を解き予定の如く行動せよ!!」

午後八時十五分

「揚陸準備をなせ!」 暗夜、月は見えなかったが、星は輝いていた。潮流速し。

午後九時四十八分

 五〜六キロ波離れたラバウルの山頂に二発の吊光弾(照明弾)が上がった。 その光の消えた頃、 「泊地進入用意!!」

午後十時二十分

 楠瀬部隊の一部として中崎砲台と東飛行場の占領に任ずる第一大隊は、輸送船団第一分隊として泊地に進入。
情報では約10門の砲台があるとされていたが、結局二門しか見当たらず 翌午前四時二十五分妹山中腹から白色照明弾三個を上げ中崎占領を合図。十門は誤報であった。

午前十時三十分

「停進漂泊、揚陸開始!!」

午後十一時四十分

 上陸用舟艇が一斉に発進。この時点で敵の抵抗なし。

第一波、楠瀬部隊上陸

 情報とは異なり上陸地点は砂地ではなく2〜3mの土層の断崖。目標に向かう三叉路を発見。峠に向かい前進。 豪軍少数部隊が峠より攻撃するもこれを駆逐。

第二波、零時十八分

西飛行場占領を任務とする桑田部隊上陸
 この部隊の上陸正面は低い丘陵地帯で暗夜目標となるようなものがなかった為、上陸は困難を極めた。大隊主力は予定地点に到着したが、大隊長は第九中隊が西飛行場に向かい進撃していると思い、 すばやく飛行場を占領し友軍に対する爆撃を阻止することを願っていた。 しかし写真判読で計画した前進路は一面のジャングルで中々発見できなかった。 仕方なく工兵隊を前に出し森林を伐採しながらの前進である。 一方花吹山北方に上陸した第九中隊は真面目な抵抗に遭遇した! 海岸地区には鉄条網が張り巡らされていた。 「豪州兵達は日本軍の上陸用舟艇やその乗員が、ラバウル港及び町で炎上中の軍需品の明かりで、 影絵となって浮かぶのをみた。上陸する日本兵は笑ったり話したりしていた。 守備隊は日本兵の大部が上陸するまで辛抱して待っていた。」

この時、豪州軍射撃開始

 全火力を持って射撃を開始した。(豪軍戦史記述) 集合点を知らせる信号弾に向けて射撃した。
第九中隊は射撃を受けたので、この陣地の正面を避けて南に移動。 集結しようとすると機関銃、迫撃砲の射撃を受けた。豪軍は集合点を知らせる信号弾を目当てに撃ってきたのである。

 大隊主力は依然密林の中を進んでいた。大隊長は第九中隊正面の銃砲声を、ラバウル市を攻略している第一大隊の方面と考えていた。 南崎占領を任務とする第八中隊は予定通り上陸に成功。

午後二時少数の豪軍を駆逐

 更に一個小隊をココポ占領に派遣した。
台上に進出した桑田部隊主力は第八中隊に圧迫されて南崎から後退した豪軍とラバウル方面から退却する豪軍とに接触。 第七中隊基幹となり戦闘をした。不期遭遇戦を三回行った。

午後一時十五分

 第七中隊先頭が西飛行場に突入!
第一回上陸部隊が発進して翌午前二時前後には無線と信号弾で各方面とも上陸成功を報告してきた。
輸送船団第一分隊の先頭、横濱丸船上にいた南海支隊長は、泊地進入当時から敵機が在空し、上陸方面には狼煙らしい火光が認められるので 相当な抵抗があるものと予想していた。第一上陸部隊が発進して、午前二時前後には無線と信号弾で各方面とも、上陸成功を報告してきた。 楠瀬部隊主力正面は静寂だった。中崎方向からは長時間、猛烈な銃砲声が聞こえてきたが、前述の通り中崎砲台も無事占領の報告があり、 支隊長は横濱丸から舟艇に乗り移った。騎兵中隊を同行した。

 二十二日午前四時三十分から午後二時四十五分まで、延機数三十、艦爆十八で上空警戒、敵情捜索を実施。 海上艦艇は地上部隊との連絡、港湾掃海を実施して上陸戦闘に共同した。

一月二十三日

 快晴であった。天明とともに各方面の銃声は止んだ。 支隊長は戦況は有利に進展しているのと判断。 そこで五時二十八分市外から退却する部隊の退路を遮断するため、騎兵中隊をラバウル港西岸に分進させることにした。

午前五時三十分

 一度松島東方海岸に到着した支隊長は、今後同地上陸部隊はラバウル市に回航させるよう指示した後、
再び舟艇によってラバウルに向かった。途中会場で西吹山方面に砲声を聞き、またその方面から飛来する射弾のしたで、 騎兵中隊が上陸しているのを見ながらラバウル港第二桟橋に上陸した。

支隊の追撃

 一月二十三日、午後における現地南海支隊各部隊の状況は、北崎と中崎の中韓海岸に上陸した聯隊主力(第二大隊基幹)は ラバウル西端まで進出し市街地とその周辺を掃蕩中であり、北崎砲台占領の為派遣された第四中隊は北崎到達後西海岸を迂回して午後一時過ぎ主力に合流。 第三大隊は西飛行場を占領し附近を掃蕩していた。

 ラバウルから第三大隊支援の為に舟艇機動した第一大隊は西飛行場に集結。そこで支隊長は附近を徹底的に掃蕩することとし、楠瀬部隊(第三大隊基幹) に西飛行場からココポ附近の地区を指定して二十四日から実施させた。 二十五日支隊長は諸情報を総合して、豪軍はスキャラン大佐する歩兵五個中隊、銃砲一個中隊、高射砲一個小隊その他約1.500名内外で、 主力は富士見湾、一部ココポ南方地区に敗走したものと判断。在留邦人は一ヶ月中旬にシドニーに送致されていることを知った。その結果 支隊当面の任務から、支隊長はラバウル周辺の掃蕩と飛行場の迅速な整備を目標に各部隊の行動を指導したが、 二十六日掃蕩が一段落した段階で、海軍側から「陸軍は何時他へ行くようになるか分からないから、掃蕩は徹底的にやってもらいたい」趣旨の申し入れがあり 、二十七日朝から本格的な追撃を実施する事になった。

 二十六日特設水母聖川丸の飛行機が偵察の結果、オープン湾に小型舟艇五、ワイド湾に同一を発見したので、聯隊主力は富士見湾方面に 陸路追撃をする事になった。部隊は海岸沿いに追撃。一部は河川は架橋渡河して前進したが、ウルダン川以西のちけいは密林と湿地で部隊の行動は困難になる。 そこでやむを得ず舟による追撃を実施する事とし、二十八日駆逐艦援護の下にラッスル湾までの沿岸要地を掃蕩した。その後降雨の為珊瑚礁の航行が 危険となったので追撃を中止。二十九日夕刻ラバウルに帰還した。支隊は一月末までにガゼレ半島北部の掃蕩を完了した。

 一方その頃豪軍主力はワイド湾北方の森林内にいるとの情報があった。支隊長は第三大隊長の意見具申に基づいて、一個中隊を海岸沿いにプツプツ湾 まで、第三大隊主力を舟艇機動によりワイド湾まで追撃させる事にした。部隊は二月二日ココポを出発、三日、四日の両日計画通りこれを実施。 この作戦で守備隊指揮官、前総督以下が投降してきた。支隊は以上をもって掃蕩及び追撃作戦を終え、二月五日以降兵力をおおむねワランゴ川-ケラバット川の 線以北に配置し、警備体制に入った。

聯合艦隊司令長官山本五十六大将が、嶋田繁太郎大将に宛てた昭和15年十二月五日付極秘私信
「ニューブリテン方面は作戦初期に攻略するの準備を要す」「作戦名R作戦」

 R作戦時の海軍機動部隊は二十二日午前四時三十分から午後二時四十五分まで、延機数三十、艦爆十八で上空警戒、敵情捜索を実施。
海上艦艇は地上部隊との連絡、港湾掃海を実施して上陸戦闘に共同した。

第二十四航空戦隊

(横濱航空隊、千歳航空隊の各半部からなる)の主要任務は「ラバウル方面敵航空兵力の撃滅」である。
その勢力は大艇十四、戦闘機九、中攻十八、計四十八機。一月四日、偵察及び攻撃開始の命により作戦行動を開始。
その日偵察と陸攻十六機による初空襲、六、七日と連続ラバウルを爆撃した。
十六日ラバウルに第四、第五次空襲を敢行。ソロモン、ニューギニア方面に哨戒、偵察範囲を広げた。 第一航空艦隊を基幹とする機動部隊は聯合艦隊の第一段第二期兵力部署で、 南洋部隊のラバウル攻略に協力するように定められた。
その任務はニューギニア及びビスマルク諸島方面敵航空兵力撃滅、攻略部隊に対する警戒である。

一月十四日

トラックに入港

一月十八日

 出撃

一月二十日

 第一次ラバウル攻撃。赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴から合計百九機が発進。 十一時四十五分頃から約二十分間、ラバウル飛行場、海岸砲台、給油船等を銃爆撃し、戦闘機五〜六機を撃墜大破。

一月二十一日

 赤城、加賀から計五十二機発進、カビエンを空襲。

一月二十二日

 四十六機で第二次のラバウル空襲を敢行。連合軍の反撃は極めて微弱なり。 特別空襲隊としてラエ、サラモア、マダンの敵航空兵力を撃滅し、ラバウル、カビエン方面の作戦を援護する目的で 第一航空艦隊の第五航空戦隊(瑞鶴、翔鶴基幹)が出撃した。

 約七十五機で二個集団に分かれ二十一日九時母艦発進、ラエ、サラモア、ブロロウ、マダン各飛行場の 地上飛行機、格納庫、その他地上施設を銃爆撃し、午後一時から二時四十分の間に全機帰還した。

一方航空部隊の活動に並行して、潜水艦作戦も行われた。

 部隊は第七潜水戦隊(第二十三、第二十七潜水隊基幹)で、セントジョージ海峡方面の監視激撃という任務が与えられた。
 潜水部隊は一月二十一日から数日間セントジョージ海峡南方海面にあって、連合軍水上部隊の反撃に備えたが 連合軍艦船は出現しなかったので配備を解き一月末全艦トラックに帰着。

上記がR作戦時の大まかな海軍機動部隊の動静である。
勿論詳細はこの比ではなくもっと細かい。

 

一月二十四日 大本営発表

 帝國陸海軍部隊は緊密なる協同のもとに、一月二十三日未明、敵の抵抗を排除して ニューギニア東方ニューブリテン島ラバウル付近の上陸に成功し、着々戦果拡大なり。

 帝國海軍陸戦隊は同日未明ニューアイルランド島カビエンの敵前上陸に成功せり。
ラバウル、カビエンは豪州防衛の前進拠点で、大東亜戦争勃後を通じて対日包囲陣中においても 「南太平洋における英米の最主要なる連絡戦略路線を形成していた。 今次新作戦はこれら英米の戦略拠点を破砕したばかりでなく、更にこの新たなる軍事拠点を中心として 既に西太平洋の制空権を掌握した空軍は、空軍基地の推進に成功し、遠く豪州まで我鵬翼をのばし得る 極めて優勢なる地位を確立したものであって豪州に対するわが攻勢と脅威は絶大なものとなった。
米国は目下、米豪をつなぐ戦略路線確保に躍起となり、豪州を通じて蘭印、シンガポールの防衛に 腐心しつつある模様であるが、新作戦によって皇軍はニュージーランド付近の水域一帯を 確保し得る事となり米豪連絡を遮断しえる絶対優勢の地位を確保するに至った。」

 R作戦開始から戦闘の終結、大本営発表まで大まかに記してみた。
戦闘の終結 一月二十三日支隊のラバウル攻略から、連合軍はほとんど一日おきに二機、 三機で夜間ラバウル上空に飛来し輸送船や地上部隊を爆撃した。 航空基地の整備について、ラバウル付近の各飛行場は占領してきると施設が十分ではなく、 また戦闘による破壊の結果直ちに使用し得る状態ではなかった。 事前の写真判読の結果とも大いに相違していた。 特に西飛行場は土質が軟弱で且つ山の頂界線にあるため 飛行場の高低差が大きく、大型機の離着陸に適さなかった。 海軍第七設営班他、各部隊から1000名を作業員を急派すると共に陸軍工兵隊もこれを支援して、 急速整備に努めることとなった。東飛行場は二十五日中に戦闘機隊の使用が可能となる見込みで拡張工事をして 中攻十八機が進出できるよう整備するようになった。

ラバウル攻略の影響

 日本はラバウル及びその周辺要地を攻略し、開戦時に計画したトラック島基地掩護のための前進拠点、 あるいは激撃決戦の為の基地航空の展開翼の設定という一応の作戦目標は完成されたかのように見えた。 当時マレーの敗退とラバウルの失陥は、連合国が日本の進出阻止になんら手を打ち得ないという重大な不安を 豪州の一般市民に持たせ始めた程の大きな影響があった。実際そのころの豪州の情勢ははなはだ寒心すべき状態であった。

 よく訓練された四個師団とニュージーランド師団、優秀な将校は全部海外にあり、空海も同様で無きに等しく、 豪州大陸の巨大な沿岸は守りきれそうになかった。 マレー及び中東情勢も逼迫しており、英本国は豪州を救援する余裕はまったくなく、頼むのは米国だけであった。 これにこたえて米陸軍省は、二月十四日歩兵一個師団を豪州の地上防衛に送ることを決めた。
しかし支援部隊も含めた約二万五千人のこの兵団が豪本土に着くのは三月下旬から四月にかけてのことである。この穴埋めに二月上旬危機に直面した連合軍が急遽指揮の統一の為に設立した豪州ニュージーランド担当地域 「ANZAC」の司令官リエリー提督がまず考えたのは、新たに増強されたレキシントン機動部隊によるラバウル空襲と豪本土からのB-17によるラバウル第一撃だった。

 この作戦は攻略の是非はともかくとして、一つの典型的な離島攻略であった。攻略前の戦略爆撃、渡洋船団の援護、戦術空軍としての上陸支援、 陸軍の進出と海軍部隊の推進など、どの一つをとってみても開戦初期における理想的な陸海協同作戦要領であるといえる。十七年後半期からの 連合軍の反攻要領も、その後ガダルカナルで米軍が確立した火力支援調整組織「FSCC」を除いては、殆ど日本軍の実施した作戦形態を戦術面で連合軍が実施したものといえる。


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